2012年01月01日 03時40分
夫が退職をして飲食店の開業を考えています。丁度駅から近い角地が空いていることもあり、周辺店舗状況を見て回ったりしているのですが、本人は漠然と2軒目のはしご店として使ってもらえる店を考えているようで、麺物、ご飯物、小料理とジャンル問わずのメニュー構想を聞き、内心不安に思っています。立地、メニュー、内装など飲食店を開業するときに、気をつけるポイントはなんでしょうか?
※この質問は、ユーザーの方から事前にいただいたものを、All About ProFile が編集して掲載しています。
昨年4月に会社を退職して翻訳者となりました。不動産収入が年間130万ほどあるため夫の扶養には入れないもとの思っておりました。年金は国民年金に切り替えて支払っています。健康保険について失業保険を受給する前は夫の会社の健康保険に入れてもらうことができましたが、失業保険の受給期間終わった後で再加入をお願いすると「年金とセットなので健康保険だけはだめ」という回答でした。
しばらく健康保険を使う機会がなかったので放置しておいたのですが、気になって区に電話して確認すると「支払っていない期間の保険料を全額支払わなくてはならない」との回答で一度に支払えるような金額ではなく非常に困ってしまいました。
年金とは別に配偶者の健康保険だけの加入を認めてくれる会社もあるとのことだったので再度夫に確認をお願いしようと思っていますが、平成18年度の確定申告の記録など調べていたら、不動産収入はマイナスで、退職までの会社からの所得は106万円、雑収入が42万円(経費を控除後)でした。そして所得からひかれる金額を引いた後の合計は80万円でした。
扶養控除の対象となる必要はないのですが、この場合夫の会社の健康保険の適用を受けることは不可能でしょうか?年末になってしまいいまさら手続きをしなおすのは夫の会社も大変面倒だとは思うのですが、もし可能なら健康保険のみの適用をお願いしたいと思っているのですが、そのようなことに関する知識が乏しいためお尋ねしています。
なお、今年の翻訳収入は昨年よりかなり多くなりそうなため、いったん夫の会社の健康保険に加入した後、国民健康保険に加入するのはさほど問題なく支払えると思っています。困っているのは支払っていない期間についてなので、お答えいただけると助かります。
友人と2人で喫茶店を共同経営しようと考え、お互い700万円ずつ出資して店舗を借り、リフォームも済ませました。出資金については、何の取り決めも契約書も交わしませんでした。ところが、いざ開店という直前になって、友人から「考え方が合わないので共同経営は解消したい。お金はできるだけ早く全額返してくれ」と言われました。ただでさえ、1人で店を開店運営することは難しく、パート店員を雇わねばならない状況です。まだ開店もしておらず、儲かるか儲からないかもわかりません。仮に開店をあきらめるとすれば、貸店舗を現状に戻して返却しなければなりませんので、出資金は無駄になるばかりか、新たな工事費もかかります。私としてはこのまま頑張って開店・営業していきたいのですが、友人の出資金を返すとすると、それもできません。出資金は全額返済する必要がありますか?また、返済猶予を要求することはできないのでしょうか?
スペイン領テキサス(スペインりょうテキサス、英: Spanish Texas)は、1690年から1821年まで存在したヌエバ・エスパーニャの1地方である。名目上スペインが、メディナ川とニュエセス川の北の土地を含み現在のテキサス州の一部である領土の所有権を主張していたが、1689年に失敗したフランス植民地サンルイ砦の残骸を発見するまでこの地域に植民しようとしていなかった。1690年、アロンソ・デ・レオンが数人のカトリック教会宣教師を護衛してテキサス東部に至り、テキサスでは最初の伝道所を設立した。インディアンがスペイン人の入ってきたことに抵抗したとき、宣教師達はメキシコに戻り、その後の20年間はテキサスを放棄していた。
スペインは1716年にテキサス東部に戻ってきて、幾つかの伝道所と1つの砦を建設し、スペイン領とフランス領ルイジアナの緩衝地帯を維持しようとした。その2年後に伝道所とそれに最も近いスペイン開拓地との中継点として、サンアントニオに初めての文民による開拓地が設立された。この新しい町は直ぐにリパン・アパッチ族インディアンの襲撃目標になった。この襲撃はほぼ30年間周期的に続いた後、1749年にスペインとアパッチ族が休戦協定を結んだ。この休戦協定はアパッチ族の敵部族を怒らせ、コマンチェ族、トンカワ族およびハシナイ族によるスペイン開拓地への襲撃に繋がった。インディアンからの攻撃と、副王領から遠いことで、開拓者達はテキサスに行くことを躊躇うことになり、ヌエバ・エスパーニャの中でも人口の最も希薄な地域の一つのままだった。インディアンからの攻撃の脅威は1785年まで続き、この年スペインはコマンチェ族と和平合意に達して、スペイン開拓者達にとって問題を与え続けていたリパン・アパッチ族やカランカワ族をその後に破るときにコマンチェ族が役立った。この地域に伝道所の数が増したことで、他の種族を平和的存在に変えることが進み、18世紀が終わるまでにこの地域でキリスト教に改宗していない狩猟採集型部族はほんの少数のみとなった。
フランスは、フランス領ルイジアナをスペインに割譲した1762年に、正式にテキサスに対する領有権主張を放棄した。ルイジアナを獲得したことはテキサスがもはや実質的緩衝地帯ではないことを意味し、テキサスの最東端にあった開拓地は解体されて、住民はサンアントニオに移った。しかし、1799年、スペインはルイジアナをフランスに返還し、その直後にナポレオンがルイジアナをアメリカ合衆国に売却した。アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンは、この買収にはロッキー山脈の東でリオ・グランデ川より北の土地全てを含むと主張した。これに伴う論争は1819年のアダムズ=オニス条約で、アメリカ合衆国がサビーン川をテキサスの東境界と認める替わりに、スペインがフロリダをアメリカ合衆国に割譲することで解決された。
1810年から1821年のメキシコ独立戦争の間、テキサスは多くの騒擾を経験した。マヌエル・マリア・デ・サルセド知事は1810年の反乱で転覆させられたが、看守を説得して釈放させ、反クーデターの動きを助けさせた。3年後に主にインディアンやアメリカ人によって構成された北部共和国軍が再度テキサス政府を転覆させサルセドを処刑した。スペインの反撃は残酷なものとなり、1820年までにテキサスにいるヒスパニック系市民は2,000人足らずになった。スペインは1821年にヌエバ・エスパーニャの支配を放棄せざるを得なくなり、テキサスは新しく創られた国家、メキシコの1州となり、メキシコ領テキサスと呼ばれる時代になった。
スペインはテキサスに深い足跡を残した。ヨーロッパから連れてきた家畜はメスキートが内陸部まで拡がる原因となり、農夫達が土地を耕し灌漑を施したことで風景は一変した。多くの川、町および郡の名前にスペイン語が使われ、それらは現在でも使われている。スペイン風建築の概念は今でも通用している。テキサスは最終的にイギリス系アメリカ人の法体系を採用したが、家産差し押さえ免除や夫婦共有財産などスペインの法習慣の多くが残っている。
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